その日の分だけ稼げばいい、といったのどかな響きがある「行商」
行商というと、小さい頃に富山の薬売りのおじさんや海産物を背負ったおばちゃんなど、たまに家に来て売っている場面を見かけましたが、昭和時代、ごく普通にみられた光景でした。
行商とは商品を持ち歩いて販売する商法で、厳密には生産者から買い集めた物を販売する商人(行商人)を言うようです。
それに近距離・小規模のものは「呼び売り・振売・棒手振(ぼてふり)」といい、大規模・遠距離のものは「行商」と呼ぶとか。
行商は、行商人が消費者の所へ商品を持って販売するものですが、すでに6世紀には始まっていた事実がみられるそうです。
なお、行商は固定客に対しての訪問販売が主で、市や縁日で留まって商売する市商(いちあきない)・街商・露天商と区別され、また、店を構えてする商売の店商(みせあきない)の出現は12世紀になってからだとか。
古代から中世にかけて行商する人を販夫(ひさぎびと)・販女(ひさぎめ)などと呼ばれていました。他にも、大原女(おはらめ)などは京の郊外・大原から京の町へ薪(たきぎ)を売りにき、近江(滋賀県)から魚を京へ売りにくる女性もいました。
平安前期に成立した『伊勢物語』には「田舎渡(いなかわたらい)」する人が京に多かったという記述があり、これも地方を回り歩く行商のことで、当時の行商人は多く集団で行動したとされます。
13世紀からの中世では市の間を巡回する行商が多くなり、中央都市の生産品を地方に持って行き地方の農産物や原料を仕入れるといういわゆる京下りなど、15世紀の中世後期には、近江・伊勢などに行商人集団が結成されて商品の流通が増えていきました。
荷を担ぐものは連雀(れんじゃく/木製の枠形の背負い道具)・千朶櫃(せんだびつ)を利用したので連雀商人・千朶櫃商人ともいわれ、駄馬によるものは馬借(ばしゃく)、荷車を利用するものは車借(しゃしゃく)といった業者を成立させ、また、船による行商も盛んになり廻船(かいせん)として発展していきました。
17世紀になると、商品の流通機構は、問屋-仲買-小売りといったものに整備されて、振売や近距離の行商は別として、遠距離のものはもはや主流ではなくなっていき、18世紀の近世中期では行商より出店(でみせ)のほうに重点を置くようになっていきました。
なお、行商人が常備薬として家庭に預ける「置き薬」で有名な“富山の薬売り”が始まったのは18世紀、現在も続いている数少ない行商といえそうです。
近距離の行商で使われた、天秤棒を振り担いで商品を売り歩く「振売・棒手振」は、平安末期から盛んとなり中世には座の特権を侵すとして圧迫されましたが、戦国大名から保護され、最盛期を迎えたのは振売札(棒手振の許可証)が与えらた江戸時代。最初は社会的弱者の救済措置で“50歳以上か15歳以下の者、および身体に障害のある人しか売ってはいけないこと”となっていましたが、こうした規制はその後行われなくなり増加していきました。
商材は、食材・日用品に限らず、紙くず、火鉢に入れる灰、金魚、蛍や鈴虫などの昆虫などなど、何でも売り歩いたようですが、その中でもちょっと珍しい商材を扱っている錦絵(上記)を載せてみました。
「滝水」「冷水」の看板もかけ、滝水の方の桶には小さな屋台があり、茶碗や白玉が収納されていました。冷たい湧き水に白糖を混ぜ白玉を浮かべた江戸時代のスイーツで、一椀四文~六文くらいで売られていました。
江戸の魚売りは、もっこ(縄であんだ網の四隅に綱をつけたもの)の上に籠を置き、籠に半台を置き、半台も籠も楕円形でした。文政年間では鯖や甘鯛が一尾300文、フグは200文、初鰹は約3両(約18万)だったとか。
江戸時代後期の百科事典『守貞謾稿』に描かれている棒手振は約90種。手に職を持つ大工など職人と違い技術や知識は不要で、店舗を構えるための土地購入や権利も不要だったから簡単に開業でき、もともと仕事のなかった者が棒手振になる例が多かったようです。そのため、棒手振の商人は庶民の住む長屋や、下級武士の住まいなどを主な商売の場所にしていました。
『文政年間漫録』という随筆には、野菜売りの家計について、“早朝、銭600~700文の元手で野菜を仕入れ、銭1貫200~300文の売り上げがあり、食費や住居費を除いて100文余から200文ほどの余裕がある。仕入れの金がない者には、100文につき1日当たり2~3文で貸す者もいた。”とあります。
ちなみに、文政年間(1818-30年)頃の長屋の家賃(4畳半の部屋+1.5畳の土間=9.72㎡程度でトイレ風呂なし)は1ヶ月500文~600文(7200円/1文12円換算)、大工さんの日当は銀5匁(もんめ)4分(1万2000円弱)だったとか。
この棒手振は、明治に入っても活動していましたが、肩に天秤棒を担ぐものから、大きな二輪の荷車「大八車(だいはちぐるま/リヤカー)」に商品を載せるスタイルに移行していきました。大八車自体は江戸時代前期から存在していましたが、個人の行商人が普通に利用し始めたのは、明治の中期頃からといわれています。この背景には、人力車の普及によって道幅が広げられ、整備されたことが理由のようです。
そして、このリヤカーによる行商は戦前・戦中まで続きました。なお、リヤカータイプの石焼き芋屋やラーメン屋台が出現するのは戦後になります。
最初の野菜行商の始まりは1923年(大正12年)の関東大震災からといわれています。総武線と並行している京成電鉄の野菜の行商専用列車(嵩高[かさだか]貨物専用車)は「なっぱ電車」と呼ばれ、この頃から運行されていたようです。そして、絣のモンペに、黒い布で包んだ40~60kgにもなる荷物を大きなカゴを背負って歩く姿から「カラス部隊」とも呼ばれたそうです。
戦後の食料難の時代になると、千葉県や埼玉県、茨城県の農村部から、まだ暗い早朝に常磐線や総武線、成田線、私鉄では京成線で東京へと向かい農作物を売る野菜行商が盛んになります。
最も行商が盛んだった1955年(昭和30年)から1960年頃は、京成線で1日4往復2000人、成田線で2800人を数え、成田線・常磐線ルートを走る行商指定列車は最盛期の1964年(昭和38年)に1日3本が運行されていました。
高度経済成長後には、道路が整備され物流インフラが整備されたこともあり、非効率な行商人は減少、国鉄は早々に行商専用列車の運行を止めていますが、京成は行商専用列車の運行を続けました。ですが近年は、高齢化とともに利用者が減少し1日20人程度になっていたことなどから2013年3月末で行商専用車両は廃止されました。
関西では、近畿日本鉄道で宇治山田と大阪上本町とを結び(1963年9月から運行されていた)、伊勢志摩地方から新鮮な魚介類を大阪に運ぶ行商列車「鮮魚列車」が2020年3月13日をもって歴史を閉じました。なお、魚の行商は、女性が集団で従事し、運搬道具としてブリキ製のカンを使ったことから「カンカン部隊」と呼ばれたそうです。
住宅地を回る“行商のおばちゃん”は今ではほとんど見る事はなくなりましたが、現在は車の移動販売となり、灯油の巡回販売や昼食の弁当販売などの行商は続けられています。
行商というと、“その日の分だけ稼げばいい”といったのどかな響きがあり、一攫千金でがっぽり儲ける事業には結びつきそうもなく、いまどきの会社でこのような「商い(あきない)」をやっているところはほとんどないですよね。
なお、この「あきない」の「あき」は、季節の「秋」や満ち足りるという意味の「飽き」と同根で、収穫期になって満ち足りた作物を交換するという意味があるのではないかとされます(諸説あり)。
今ではネット通販で何でも買える時代だけれど、行商のおばちゃんが来ると縁側に座り品物を並べ、お茶を飲みながらの楽し気なコミュニケーションが見られました。
自宅まで届けてもらうのが当たり前になった現在、そんな行商というビジネススタイルが消えるのは自然な成り行きだったのでしょうね。
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