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最も古く伝統的な祭りではあるものの簡素化・形式化された「正月」

最も古く伝統的な祭りではあるものの簡素化・形式化された「正月」

あと少しで様々な事があった今年も終わり、お正月を迎えます。

昔は一日の始まりは夕方であったから、正月の行事も大晦日の夕方に始まったそうです。なので現在は年越しそばとなって残っていますが、昔は12月31日の夕食が正月の最初の食事であったとか。また、現在のようなお正月の行事(門松やしめ飾り、鏡餅などを飾ること)が浸透したのは、江戸時代に入り庶民にも手軽に物品が手に入るようになってからのようです。
などなど、毎年のように行う年中行事の「正月」、実は知らないことが多ので、錦絵や写真を交えて調べてみました。

「二見浦曙の図」歌川国貞 画
「二見浦曙の図」歌川国貞 画(1832年)出典:国立国会図書館

三重県伊勢市にある二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩からの初日の出の様子。“初日の出を見ると寿命が延びる”というジンクスがあったようで、初日の出を拝みに早朝から出かける人々も沢山いました。江戸では愛宕山(あたごやま)や高輪・品川は特に賑わいましたが、全国では明治以降に盛んになったと言われています。
初詣に関する記事はこちら→違和感を覚える「二礼二拍手一礼」や「神社」について

旧暦1月(改暦後は新暦1月)の別名「正月」は、日本の行事の中で最も古くから存在するものだと言われています。その起源はまだ詳しく分かっていませんが、仏教が伝来した6世紀半ば以前より正月は存在していたと伝えられています。

日本では昔から“全てのモノには命がありなんらかの意味がある”というアニミズムを信仰しており、作物の生命(稲魂/いなだま)と人間の生命(魂/たま)は1つのものであると考えていました。そのため、人間が死ぬとその魂はこの世とは別の世界に行き、ある一定の期間が過ぎると個性を失って「祖霊」という大きな集団に融合同化した先祖の霊、いわゆる「ご先祖様」になると信じられていました。
この祖霊が春になると「田の神」に、秋が終わると山へ帰って「山の神」に、そして正月には「歳神様」になって子孫の繁栄を見守ってくれているのだと言います。
また、歳神様が穀物を司る農耕神に発達したのは、稲作を生業とする集団が渡来してからのようです。

神道においては、もともと正月に各自の家に祖先神(そせんしん)が帰って来るという信仰がありました。祖先神とは先祖の集合霊であり、これを正月様・歳神(としがみ)様・歳徳神(としとくがみ)様と呼びますが、本来はお盆と同じく“先祖をお祀りする行事(魂祭り)”でした。しかし、仏教が浸透しその影響が強くなるにつれて、お盆は仏教行事の盂蘭盆会(うらぼんえ)と融合して先祖供養の行事となり、正月は歳神様を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」としてはっきり区別されるようになったと考えられています。
なお、死後に人はやがて祖霊となり、さらに昂(たかま)っていくと祖先神へなるとされます。

「江戸砂子年中行事 元旦之図」楊州周延 画
「江戸砂子年中行事 元旦之図」楊州周延 画(1885年)出典:江戸東京博物館

江戸の正月の賑わいぶりを、江戸城を背景に描かれています。画面左から門松、凧揚げの子どもたちと、編笠をかぶり三味線を持つ二人の鳥追い(女芸人)、背後に挟み箱をかついだ供を連れて年始に行く武士と三河漫歳の太夫。中央から右へは羽根突きを楽しむ晴れ着の母と子どもたち。手鞠にじゃれる猫や、大凧を持つ子どももいます。右端は獅子舞の一行、城の橋には年賀から帰る武士の一団がおり、石垣と松の間から櫓が見え、凧の泳ぐ空には白い富士も浮かんでいます。

旧暦1月1日は2月頃の立春前後に当たり(現代の正月を「新春」と言ったりするのはこの名残り)、1年の始めである正月は春の始まりとも考えられており、人々は春の訪れがもたらす生命の誕生を心から喜びました。なので、「めでたい(芽出度い)」という言葉は“新しい春を迎え芽が出る”という意味があるといいます。
また、新年に言う「明けましておめでとうございます」という言葉は、年が明け歳神様を迎える際の祝福の言葉でした。つまり、神様への感謝の言葉を人々の間で交わすことにより、心から歳神様を迎えたことを喜びあう、ということのようです。

19世紀後半、大掃除の様子
19世紀後半、大掃除の様子。出典:Flickr

この歳神様を迎えて家を祭場にする準備をするのが12月13日の事始めで、これを十三日節供・煤(すす)払いとも言います。大掃除の記事はこちら→年末に行う大掃除は「妖怪除け」からだった⁈
門松(平安時代頃から始まった)もこの日から立てますが(1月15日まで、現在は7日、までを松の内と言う)、節分の柊(ひいらぎ)と同様にチクチクするものを門口に立てて門守(かどまも)りの呪物としたものが、歳神様の依代(よりしろ)と理解されるようになった説、また、神道では神様は普段、神奈備(かんなび・かむなび・かみなび)と呼ばれる深山幽谷の神域に鎮座すると信じられていて、そこは冬枯れの時期でも常緑樹である榊や松が生い茂る緑の山。そこで家の前にも緑色の松の枝を立て、ここは神様の滞在場所として相応しい清浄な場所と神様にアピールするため、という説もあります。なお、対にするのは狛犬が2体と同じ理由で、神域を作るためには2本が必要だからとか。
狛犬の記事はこちら→息を合わせて警備の仕事にあたっている「狛犬」

「四季之内 春遊」歌川国輝 画
「四季之内 春遊」歌川国輝 画(1855年)出典:東京都立図書館

賑やかなお正月の室内遊びが描かれています。左方では拳(ジャンケン、狐拳・藤八拳など色々な種類があった)に興じるさま、中央には十六武蔵(ボードゲームの一種)、右方では草双紙や芝居番付を見たり手鞠(日本に古くからある玩具、江戸中期に流行し正月の遊びとして好まれた)をついて遊んでいます。

「四季之内 春遊」歌川国輝 画
「四季之内 春遊(上記左部分)」歌川国輝 画(1855年)出典:東京都立図書館

左端の床の間に伊勢海老を飾った鏡餅、畳には蓬莱飾り(ほうらい/仙人伝説がある蓬莱山をかたどった三方に、松竹梅・鶴亀・昆布・熨斗鮑・みかんなどを飾って祝儀や酒宴の飾りものとしたもの。江戸では喰積[くいつみ]と呼んだ)とおせち料理の重箱、お屠蘇(とそ)と盃が置かれています。おせちが重詰になったのは江戸時代中期からで、その原形は江戸時代以前からある蓬莱からと考えられています。
江戸時代も天明期(1781-89年)頃までは、喰積(蓬莱飾り)はその名のように、つまんで食べられるものでしたが、その後は食べる形だけで実際には食べないものになりました。その後寛政期(1789-1800年)頃から、食べられる祝い肴(数の子・昆布巻き・ごまめ・黒豆など)を詰めた重詰が作られるようになり、飾るだけの喰積は重詰と並存し、明治になると喰積は廃れて重詰が一般化したものと考えられます。なお、おせち料理は、節(せち)の日(改まった機会)の料理ということで、本来は正月に限った名称ではなかったそうです。
また、正月にお屠蘇を飲むことは平安時代に伝わり、お屠蘇は味醂に薬草を漬けた薬酒で死者(屠)を蘇らせる飲み物とされ、邪気払い病除けの風習として江戸時代には広く行われたそうです。
絵にはありませんが、1月1日に食べる雑煮は、歳神様に供えた食品を下げて、ごった煮にして神と人とが一緒に食事をする直会(なおらい/神人共食)の一種とされます。
餅の記事はこちら→福を招くおめでたい食べ物「餅」

「睦月わか湯乃図」歌川国貞 画
「睦月わか湯乃図」歌川国貞 画(1847年)出典:国立国会図書

正月の銭湯の様子。ほとんどのお店が閉まっているなか、銭湯は元日から営業しており、人々は「初湯」を楽しみました。初湯には若水(わかみず)という、元旦に初めて井戸から汲んだ水で大福茶という縁起のよいお茶のサービスもありました。若水は邪気を払う・若返らせる力をもつ水とされ、年神様へのお供え物や大福茶・雑煮などを作る際に使いました。銭湯の記事はこちら→身も心も軽くなる「お風呂」は非日常から!?

「風流てらこ吉書はじめけいこの図」歌川豊国 画
「風流てらこ吉書はじめけいこの図(一部)」歌川豊国 画(1804年)出典:ボストン美術館

女子の寺子屋で、助手も生徒も晴れ着の新年けい古始めの様子、奥の右手に筆をもつ男性が師匠のようです。書初(かきぞめ)は正月2日に、その年の書き初めを祝う行事で、寺子屋の普及とともに一般化したといわれています。なお、元日に汲んだ若水を使って書くことがポイントで、上手に書けた子にはお菓子などご褒美もあったんだとか。
寺子屋は室町後期に寺で始まったもので、生徒を寺子と呼んだので寺子屋の名があるといいます。左端の衝立(ついたて)の上部中央には『古今和歌集』の古歌に始まり、江戸時代には琵琶歌、浄瑠璃、常磐津などにも歌われ、現在は国歌となっている君が代が書かれています。

「戯童十二月 正月凧揚げ」鳥居清長 画
「戯童十二月 正月凧揚げ」鳥居清長 画(1787年)出典:ボストン美術館

江戸の正月の男の子の楽しみは紙鳶(たこ)揚げで、空を見上げて遊ぶのは体にもよいといわれていました。そのため元日は江戸中の店が休業している中で、商売をしているのは紙鳶(紙鳶は凧の古語)商人だけだったといいます。凧揚げの記事はこちら→雲まであがれ、天まであがれ~、イカだった「凧揚げ」

「五節句ノ内 睦月(一部)」歌川国貞 画
「五節句ノ内 睦月(一部)」歌川国貞 画(19世紀)出典:東京都立図書館

羽根突きは江戸時代には女の子の正月遊びの定番となり、子どもだけでなく大人の女性にも人気がありました。着物も特別な晴れ着を着て帯や草履なども新調するなどしたそうです。着物は松竹梅や鶴亀・宝船などおめでたい柄が人気でした。羽根突きの記事はこちら→今はもう見られないアナログな遊び「羽根突き」

19世紀後半のお正月写真
19世紀後半のお正月写真。出典:Flickr

平安時代にまで遡る、歳神様を家に迎えるための依り代「門松」。現在の門松とは違い、江戸・明治時代頃は葉を繁らせた笹竹を何本がまとめ、その下に松をぐるりと巻きつけ、さらに薪を束ねたものが土台となっています。門松の高さは財力を示すといわれ、天まで届くような門松はステータスだったのだとか。出入りの鳶職が門松を立てたそうです。

戦前、お正月写真
戦前と思われるお正月写真。出典:Flickr

インドが起源で、8世紀頃に伝わった散楽(さんがく)から派生した「獅子舞」。16世紀初め、伊勢国で飢饉・疫病を追い払うために獅子舞を舞わせたのが正月で、始まりといわれています。今でも正月になると見られますが、江戸時代からは正月の風物詩でした。魔を祓い福を招く獅子舞の姿は江戸時代から今に至るまであまり変わっていないそうです。

玄関先の門松

ということで、正月とは1月のこと。1年の始まり、という謳い文句に踊らされて、分不相応な目標を掲げる月。同時に、それが分不相応であることに気づいて、掲げた目標を降ろす月でもあるような(汗。
そして、1月の初頭に祝われるお祭りのこと。伝統的な祭りではあるものの、現在では「年の初め」というごく単純な理由のみで祝われるため、信仰の有無や宗旨に関係なく参加できる、いわば参加資格不問、入会金・年会費フリーのクラブのような気楽な祝祭期間。古い祝祭につきものの、しちめんどくさい儀式や決め事は簡素化・形式化され、年末に作り貯めした料理をつまみながら酒を呑んでゴロゴロしているというのが祭りの基本的なスタイルであることから、ものぐさな日本人には最も人気の高い行事となっています。最短でも1月1日から3日まで、怠け者は7日頃まで、猛者はその日曜日まで、「正月」という名目で休暇を楽しみます。
古くは、お盆(盆、盂蘭盆)と同じく先祖の霊を祀る厳粛な祭りであったようですが、いつしか、新しい年を担当する神様を門前の松や竹の飾り物を案内板にして招待し、大きな餅などを供えてご機嫌をとりつつ、その年の農作物の豊作や家庭の幸福をおねだりするという吞気なお祭りとなり、そうした本質的な意味も忘れられて現在に至っています。

しかし、来年こそは良い年になってほしいと、願うばかりです。たぶん春までは辛抱が続きそうですが…。

年賀状の記事はこちら→お正月の風物詩「年賀状」、あなたは出しますか?

出典:正月/コトバンク
出典:正月/いろは事典
出典:正月
出典:日本語を味わう辞典

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